武術を修める深意

 光圓流の昇給審査では、口頭試問が取り入れられています。

入門して最初の審査では「武術(空手)を学ぼうと思ったのは、なぜですか」という問いかけが、ほぼ決まってなされます。

「強くなりたいから」「心身ともに鍛えたいから」「護身術を身につけたい」「試合に出てみたいから」「道衣を着てみたい」「黒帯を取りたいから」
武術を学ぶようになった経緯は、人それぞれ多種多様であることが、審査に望む生徒たちの答えからも見えてきます。

幼い子供たちや、入門したばかりの初心者であれば、単純に強くなってみたいという入門の動機が、やはり多数を占めています。
そういった素朴ともいえる思いが、稽古を積み重なるに連れて、どのように変化していくのか。

当流では帯の色が変わるごとに、口頭試問の内容も、より複雑で高度なものへと深化していきます。
たとえば「強くなりたい」という生徒には「強くなってどうするのですか」という質問を投げかけます。

ただがむしゃらに強くなることしか考えていなかった生徒も、そこではじめて「武術を修めることの意味」に思い至ることになるのです。

肉体的に強くなりたいのであれば、今の時代は総合格闘技のジムなどに通った方が、多くの人々にとっては効率的であるのかもしれません。
そこで再び「なぜ武術を選んだのか」という、自らへ向けた本質的な問いかけがはじまることになるのです。

護身という目的であれば、空手や体術よりも、杖術や暗器術を身につけた方が、危機への対処法なども含めて、短期間で要所を押さえられることでしょう。
そこまでわかっていれば「なぜ空手なのか」という自問自答も生まれることでしょう。

なぜなのかという問いかけがあって、はじめて学ぶことの意味というのも見えてくる。
意味が見えてきて、ようやく物事の本質や価値というのも、判断できるようになってくる。

そうした能力を会得していくのに、武術ほど適した稽古事は、他にないかもしれません。

なぜなら武術は、常に厳しい実践と表裏一体であるからです。

日本にも、さまざまな習い事が普及してはいますが、実践性のともなったものというのは、意外なほど少ないのが現状です。
表現や動きにしても、通り一遍で華美に魅せることに気をとられてしまい、本質を見失っているものが溢れているのではないでしょうか。

これでは、いくら学んでも『様式美』で終わってしまい『機能美』にまでは至らない。
機能や本質を見失っているからこそ、外連や様式に流されてしまうともいえるでしょう。

そのような稽古事が普及すればするほど、日本の文化の形骸化も進んでいき、廃れていく一方になってしまう。

武術には、そのような悪しき流れを断ち切るために、実践を重んじるという根元的な思想が備わっています。

いざというとき、本当に身を守れるのか。
組み稽古のような場面ですら、自由な攻防では満足に使えないような技術で、果たして護身が可能なのか。

たったこれだけのことですら、検証してみなければ、実際のところはわかりません。

そういった、ごく当たり前ともいえる問いかけがあればこそ、試し合いを行ったり、他流との真剣勝負を繰り広げたりといった、武術の歴史も育まれてきたのでしょう。

この“問いかけ”や“検証”するという姿勢こそが、あらゆる自然科学や人文科学の根本でもあり、人間が成長していくために、もっとも欠かせざる要素にもなっていくのです。

武術を修めるのも、つきつめていけば、人間を成長させていくという一点にたどり着きます。

自らの心技体を鍛えていく課程で、さまざまなことが見えてくる。
どうすれば強くなれるかというのは、いかに己の弱さと向き合い、克服していくかということでもある。

一見すると単調ともいえる稽古を、日々延々と繰り返していく忍耐力。

組手の際の痛みや恐怖心や、試合時の緊張感との闘い。

無駄を見抜き、最短最速の一手を打つ判断力。

好機を逃さず、攻めきる心構え。

状況を瞬時に把握して、守るときは守り、引くべきときは引く。

思いこみや迷妄を捨て、臨機応変に対処できる応用力。

不調が続いたときも、粘り強く打開策を練っていく、探求心と克己心。

師や先輩たちの動きを見取り、教えや言動の真意を推し量って、そこから何をどれだけ吸収していくかという洞察力。

そうした試みを繰り返していく中で、真贋を判断する能力や、物事に動じない胆力や、自分自身だけでなく自他ともに人を成長させていく手順までもが、ひとつまたひとつと見えてくることでしょう。

約束組手での多人数掛けや、大人数への指導を通じて、複数の事柄を効率よく順序立てて、並列的に処理していく感覚を研く。

困難の中でも平常心を保ち、あるいは平時においても適度な緊張感を忘れず、常に余裕をもって泰然と事に当たる姿勢。

そういった人間としての地力は、どのような分野や組織においても、大いに活用していくことができるはずです。

偉大に見える武術界の名人や先達にしても、それらの能力を最初から授かっていたわけではないでしょう。

到達可能な目標を設定し、一歩ずつ達成していく。

その過程を経ることで、次第に長期的な展望までもが描けるようになり、十年後二十年後を見据えた稽古や文化活動に打ち込むことができるようになる。

そこまでたどり着けば、雲上人のように見えた先達と、いつしか同じ立ち位置に己が達するときも訪れるかもしれない。

触れた刹那に制す。

相手の心を読みとる。

神技にしか見えなかった先達の御技が、自らにも宿っていることにも、いつの日か気づけるやもしれません。

しかしながら現在の日本の武術界で、そのような道筋を示せる流派や指導者を見つけ出すのは、なかなか難しいともいえそうです。

敗戦後の禁武政策などからも推察できるように、武術には人間を本質的に育てる力があるがゆえに、恐れられ忌避されてきたようなところがある。

本質的で有用なものほど表舞台から遠ざけられたり、骨抜きにされたものばかりを故意に広めてきたりといった痕跡さえもが、そこには見てとれるかもしれません。

不当に貶められてきたがゆえに、武術を真摯に学ぼうとする人材も長期的に不足するようになり、それゆえ優秀な指導者も現れないという悪循環。

高度な技法を身につけている熟練者ほど、人に教えるのを厭う傾向というのもある。

高位の武術家ほど、意味や価値のわからない人間に教えたところで結局は悪用されるだけだと心得ていたり、自らが上達するための稽古に余念がないからというのもあるでしょう。

また、文武両道で頭角をあらわすくらいの人物となると、公務や実業や文化方面など他分野でも活躍している例が非常に多く、指導にまで大きな力を注ぐ余裕がないという問題も出てきます。

そうした実例を間近にするほど、日本の武術が人間の成長にどれほど寄与しているのかも、実感できるようになっていくことでしょう。

そのことを何よりも知っているのが、海外から日本へ武術を学びに訪れる人々です。

能見師範はよく言われます。
「文化の真価は、異なる文化圏との対比で明らかになる。その目安が、実際に現地まで学びに訪れるかどうか」
「外国から、わざわざ学びに来たいと思われるような文化が、いまの日本にどれほどあるだろう。健闘している筆頭が、日本では武術なんだよ」
「だからこそ、武術を選んだ人間は、誇りと自覚を持って進んでいかないといけないよ」と。

光圓流にも、海外からの問いあわせが、かなりの割合で寄せられています。
その中には指導の専門家も何名かおられ、他国の文化を研究して自国のために吸収していこうと余念がないのがうかがえます。

海外の指導者には、光圓流の動画を見た時点で『基本や全体構造からして既存の空手とは別物だ』と見抜いてしまうほどの眼力がある。

そこには目的意識の違いや、理論と実践の積み重ねの明確な差が現れており、日本が武道やスポーツ競技だけでなく、あらゆる文化や経済活動で置き去りにされている原因までもが、浮かび上がってくるかのようです。

文武両道という教えが示すように、理論と実践は相互に補完し合い、欠かせざるものである。

文事ある者は必ず武備あり。
文武は兼ね備えるのものであり、平和なときだからといって決して油断してはならない。

現代の日本人が見失ってしまった大切な智慧が、武術の中には無数に息づいています。

けれども当の日本人こそが、その意味や価値にすら気づけなくなってしまい、舶来物ばかりを有り難がり、芯を失っているという現状。

嘆いていても仕方がありません。

その智慧を取り戻すために、日々汗を流す。
自らを成長させ、智慧を広めていくためにも、後進を育てていく。

武術にしか為し得ない領域が、その先にはどこまでも広がり、連綿と続いているのです。

その事実を率先して示すために、光圓流は門戸を開放するに至ったともいえるでしょう。