号令と数息観


武道の稽古では、号令をかけながら技を繰り返すということが、半ば慣習化しています。
明治期の富国強兵に併せて、学校体育などにも武道が取り入れられ、集団で稽古をするようになったことで、このような慣習が広まっていきました。

それ以前の日本の武術では、技を打ち込む回数を、無声で数えていたことの方が多かったようです。

なぜ、技を数えるのか。
稽古を適度な量に調整していくためというのが、やはり第一目的でしょう。
大きな声で号令をかける場合は、その稽古量を大人数で同時にこなしていくという意味が、さらに加わります。

しかし数えるという行為には、意図を超えた波及効果というのが秘められてもいるのです。

稽古に没頭していて、技を何度繰り出したか、いつの間にかわからなくなっている。そうした経験を、武術を修めている人間であれば、誰しもがしていることでしょう。

我を忘れるくらいに没頭するのも、時には大切なことです。
初心者のうちは、技を出すのに精一杯で、号令さえもままならないこともめずらしくはない。

しかし上級者になるにつれ、いくら集中をしていても、号令をかけ忘れるような場面は減っていきます。
それは無意識のうちに技を繰り出し、無意識のうちに号令を繰り返しているからこそ、可能となることでもあるのです。

ただ数えている。
それだけのことであるはずなのに、根底には人間の深層意識までもが関わってくる。

仏教にも、数息観〔すそくかん〕という修行法が伝わっています。
座禅の最中などに、ゆっくりと呼吸を数える続けることで、集中を促す。あるいは無心になっていく。
それは呼吸と意識を調和させることにより、脳波を特定の周波数に修めようとする行為でもあるのです。

武術を修行しているみなさんも、日々同じ体調や心境で、常に稽古と向き合えるわけではないでしょう。
雑念が生じることもあれば、動きに精彩を欠くときもある。
しかしながら、いざ稽古をはじめてしまば、自然と技が繰り出され、動きにも熱が籠もっていく。
そうした実体験にも、多くの人々が思い当たるはずです。
ここにも大抵の場合、号令が引き起こす力というのが強く働いているものです。

座禅における数息観が、気を静めるのが目的だとするのなら、武術における号令は、気を逸らせて心身を統一させる効果があるともいえるでしょう。

肚から声を出すように――と武道の稽古の現場では指導されることが多いはずです。

臍下丹田を奮わせ、腹式呼吸で号令をかけ、気合いを入れる。
その繰り返しの中で、意識の焦点を合わせ、瞬時に全身を協調させる感覚が目覚めていきます。

また量稽古をこなす際も、一から十までの号令を延々と数え続けることによって、加速度的に気合いが入っていくという体感が得られることでしょう。

無心になれ。
気合いを入れろ。

これらの相反する要素を、まとめ上げるのが号令であり、数えるという行為でもあるのです。

稽古を積み重ねるうちに、一心不乱となる感覚が身に染み渡り、より短い時間のうちに、己を解き放つことも可能となっていくはずです。

それは数えるという行為が、無意識下への刷り込みを後押しして積み重ねているからでもあるのです。

海外のアスリートの多くは、練習時の集中力を高めるために、呼吸によるメディテーション(瞑想)を採り入れています。
集中力こそがトレーニングの効果を上げる最初の一歩だということが、経験則によって科学的に証明されてきたからこそ、東洋的な叡智ともいえる呼吸と瞑想が普及していったのです。

自律神経を安定させるのにも、呼吸は大いに役立ちます。
呼吸をコントロールしているのは、セロトニン神経であると、近年の研究では証されてきています。

精神を安定させるセロトニンは、98%が腸内、1%が血液の中、残りの1%が脳内で働いているといわれています。

このセロトニンの分泌量の多寡で、躁鬱といった精神状態や、性格や気質までもが、大きく左右されていくようになるのです。

物足りなさ、落ち着かなさ、苛立ち、焦り、不安。
やらなければならないのに、集中できない。
頭ではわかっているのに、心や体が随ってはくれない。

そういった状態は、無意識と意識の解離によって引き起こされているともいえるでしょう。

武術の稽古の開始時に、黙想を行うのも、こうした精神状態から抜け出すため、あるいは断ち切るためというのが、最大の理由であったはずです。

まず黙想をする。
ゆっくりと呼吸を数えるという、数息観によって、時間の流れを変じさせる。

そして稽古では、号令をかける。
力強い号令と気合いによって、己の中心を空間に浮かび上がらせる。

相反するようでありながら、どちらも実践的な武術を究めていくためには、欠かせざる要素になってくる。

一人稽古の時こそ、まずは意識的に、号令を数え上げてみましょう。
無声で構いません。否、無声の方が、むしろ響くものがあるはずです。

その状態で、裂帛の気合いを入れていく。
あるいは、殺気を消して技のみを奔らせる。

稽古の開始時、また終了時の黙想では、静かに呼吸を調え、数息観を行う。

武術は、まさに陰陽の体現であることが、実感できるかもしれません。

陰極まれば陽に転ず。
無心の状態から、刹那に最大の爆発力を得る。

陽極まれば陰に転ず。
最大の力を解き放った後には、収束が始まり、静寂が訪れる。

そういった本質的な理合も、充実した稽古の繰り返しの中で、次第に身についていくものではないでしょうか。