眼力の養成

 

光圓流に体験入門に訪れた方々が、能見師範の動きを目の当たりにして、ほぼ決まって口にされる言葉があります。

「速い!」
「凄い音がしますね」
想像していた以上の技巧を眼前にしての、率直な感想なのでしょう。
他流の武術や格闘技の経験者も、ほとんど同様の思いを言葉にされます。

能見師範は笑って答えます。
「ウェブで公開している動画と同じでしょう。映像も音声も加工なんてしていませんからね。見たままなんですよ」

ありのままに見る。
ただ、それだけのことが難しい。

なぜなら現代人の大多数は、凝り固まった常識や固定観念に縛られて、日常を過ごしているからです。
武術の映像を見る際にも、自らが経験もしたことのない範疇には、まったく想像が及ばないということも、得てしてめずらしくはないでしょう。

「実際に技を目の当たりにするのと、動画で見るのでは、まるで迫力が違いますね」
そういった感想を洩らす入門者も少なくありません。

実のところ、光圓流がyoutubeで公開している映像は「わざと迫力が出ない」方法で撮影されています。
現時点(2017年7月)では、すべての動画が「固定カメラ」による「引き」の映像となっているのです。

理由のひとつは、ハンディカメラで撮影しようとすると、能見師範の動きが早すぎて、フレームに収まりきらないという問題がありました。
予備動作が表に現れないので、撮影者が姿を追いきれないという場面が、頻繁に出てくるのです。

相手からすれば、気づいたら間合いに入られて決定打を決められている。
また、溜めたり地面を蹴ったりといった挙動がないため、吸い込まれるように技が決まっていく。

そのような高度な技法を、距離のある引きの映像で、なおかつ全身を映した状態で、公開している動画というのは、世界中を探しても数えるほどしかないのが現状です。

なぜなら「引きで全身を映す」と、移動距離と時間を計算することが可能となり、おおよその速度や技の威力までもが分析できてしまうからです。

能見師範は、そのあたりも踏まえた上で、あえて動画を公開したといいます。

「カメラワークによって派手さを演出しようだとか、使いものにならない見せ技であるとか、そういった外連に惑わされるような人間の相手をしていても仕方がない」

「技の効き、安定感、予備動作のなさ。そのくらいは感じ取れるような人材に入門してほしい」

「舞踊では表現できない領域や、武術の本質や普遍性を突きつめていく。そういう志に気づけるような人が、ひと握りでも現れればいい」

そのような考えのもとに、動画の編集もなされていきました。

 

 

動画を公開して以降は、問いあわせが頻繁に入ってくるようになりました。

「他流とは動きの質が違う」
「重さと早さが両立している」
「技の起こりがない」
「反応力と瞬発力が並外れている」
「技の効きを完全に制御して加減している」
「軸が非常に強く、それでいて驚くほど撓やか」
「特殊な鍛錬を長年やり込まれてきた成果なのでしょう」
そのあたりまで見抜いておられる武術や格闘技の経験者も、数名はいらっしゃったようです。

体験入門に訪れる方々も、定期的に現れるようになりました。
大半は、やはり他武術や身体文化の経験者です。
たとえ未経験者だと隠していても、すぐに能見師範は見抜いてしまいます。

「伝統派空手をやっていたでしょう?」
「フルコンをやってますね」
「柔道の段持ちでしょう」
「ボクシングの経験者ですよね」
「体操の選手でしたか」
「クラシックバレエをやっていたでしょう?」
師範の読みは、まず外れることがありません。

試合の展開や結果なども、能見師範はよく言い当てます。
他流派との練習試合などでも、どの生徒がどういう試合運びをして、何勝何敗という結果になるのかまで、ほぼ正確に予知してしまいます。

組手の際も「ほら、左の突き」「次は右の蹴り」というように、相手が何をしてこようとしているかを、師範は事前に言い当てることがよくあります。

それは何も特殊な能力などではなく、経験の積み重ねによって高度な予測が導き出せるようになった結果に過ぎない、ということのようです。

「立ち方、姿勢、重心を見るんだよ」
「基本の練度と、身体の巧緻性、応用力を見取るように」
「相手の攻撃力と間合いを見抜く」
「戦闘力が数値化できるくらいまで子細に分析する」
「経験値が溜まるほど、少ない情報でより早く、全体構造を察知できるようになる」
「ジグソーパズルのように、ひとつひとつピースを埋めていくと、あるとき不意に全体図が浮かび上がってくる」

「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」
「見た瞬間にわからなければ、勝ったり負けたりで終わるよ」
「勝つべくして勝つのが武術」
「何をやってきた人間か、類推できるように、人間観察をする」
「体験入門者の所作から、職分くらいは見透かしてみせないと」
「そこまでの見積もりができれば、学術研究や実業や他文化での活動にも応用が利くようになる」

眼力を養成していくことの重要さを、光圓流では常日頃から繰り返し強調して指導していきます。

ここでも基本となるのは、やはり力学です。

トンネルは、なぜアーチ型をしているのか。
弧に沿って伝わる圧縮力を用いることで、荷重を容易に支えることが可能となるからです。
四角や三角といった形状のトンネルを築こうとしたのなら、おびただしい補強が必要となることでしょう。

薄い紙を組み合わせただけのダンボールが、丈夫なのはなぜか。
波状の中芯が入っており、三角形を作っている空間が"トラス構造"となって、荷重をすべて節点に作用させることで、部材には圧縮のみが作用するようになっているからです。

空手の立ち方にしても然り。
強い立ち方には、構造的に有利だという原理原則がある。

武術の指導においても、そのような構造を解き明かしていき、原理原則に沿って段階的に指導していくというのが、当流の理念になっているのです。
また、そうした本質的な指導を受ければ、生徒たちも次第に力学的な見解を得られるようになり、やがては相手の力量までをも察せられる眼力が育っていく。

その眼力は、あらゆる方面でも活用ができることでしょう。
物事の真贋を見定めたり、建築物や組織の脆弱性を予見したり、時には身の危険を察知したり、人を助けたり護ったりといった場面でも、大いに役だってくれるはずです。

光圓流では、熟練者や高段者ほど「何をやっても師範には決まらない。打とうとしたときには、消えている」といった体験をするようになっていきます。
それは認識力や読みの能力が向上し、自らの技が通じるか否かが、事前に察知できるようになってきた証でもあるのです。

「無理に攻めると、完全に崩されるか、次の瞬間には決定打を当て止めされている」
そのような経験を経ることで、打たせずに打つための筋道や、確実に闘いを制するには何が必要なのかにも、自ずと思い至るようになっていくのです。

遠目にしただけでも、立ち方や姿勢や筋力の配分がわかる。
当身の威力や、得物の有無や、得手や不得手さえをも、瞬時に見切る。
間合いに入る前に、いかにして勝機を得るかを思い描いて、必勝に備える。

それが出来るようになって、はじめて武術ならではの奥深い領域に触れることが可能となるのです。

文化の存在理由は、突きつめていくと、人間を育てるという一点に集約されます。
そして育てるという行為には、すべからく方向性が求められる。
その方向性を導き出すのも、文化的な営みによって培われた価値観であり、物事の真意を見通す目であり、眼力だといえるでしょう。

天地自然の理を知り、 強さと賢さの生まれいずるところを知り、その本質を体現する。
そういった文化の精髄ともいえる智慧が、日本の武術には遍在しています。
ゆえに武術を選んだ人間は、武術とともにありさえすれば、道に迷うようなこともなければ、時代の流れに移ろうといったこともない。

武術を選んでよかった――と心から思える。
その道筋を示していくために、光圓流は技術や理論を公にしはじめているともいえるでしょう。