“小よく大を制す”ために

 

近代格闘技では、体重制で試合を行うことが、ほぼ通例となっています。

肉体そのものを武器とする競技性ゆえに、体格差が結果をも大きく左右していく。
そうした経験則から、この百年あまりのあいだに、体重別による階級制が急速に導入されていったという経緯がある。

体重制が普及したおかげで、小柄な選手でも試合で活躍できる機会が得やすくなり、軽量級ならではの迅速で洗練された攻防も繰り広げられるようになってきました。
同じ競技であっても重量級と軽量級では、まるで技術の傾向が違ってくるといった現象も見受けられるようになりました。

西洋でもフェンシングなど得物を用いた競技では、剣道やなぎなたのように無差別級で試合が行われることは、現代でもめずらしくはありません。
しかし、レスリングやボクシングのような、あからさまに体格差が響いてくる格技では、体重無差別で競い合うこと自体が「フェアではない」とさえ見なされている風潮がある。

ところが日本では、柔道、相撲、空手道といった格技ですらも、今なお無差別級の大会が催されています。
これまでにも全日本や世界規模の公式戦で「小よく大を制す」を実現してみせた選手が、日本からは数多く排出されてきました。

そこには武道が“武術”であった時代の思想や理念までもが、垣間見えるかのようでさえある。

欧米や大陸の人間と接すると「大は小を兼ねる」「大きい方が強い」「小さいものは無価値」というような思考が、深く根づいていることに気づかされます。

格闘技の世界でも、体重の軽い選手は、軽んじてみられているというのが現状です。

階級の呼称も、フライ(蝿)、バンタム(チャボ)、フェザー(羽)、ライト(軽い)という、蔑称めいたものが並んでいる。
パウンド・フォー・パウンドで最強に列挙されるほどの名選手が、欧米では軽量級というだけで人気が得られず、競技人口も少なく歴史も浅い女子選手の前座を務めるようなこともあるのです。

日本の盆栽や庭園、古刹、懐石料理などに見る“わびさび”のような精神は、そこには見受けられません。

我が国では古来より、足るを知る、無駄を省く、正々堂々、弱きを助け強きを挫く、義を重んじる、判官贔屓、敗者の美学といった価値観が、民衆のあいだにまで広く根づいていました。

力尽くや、多勢に無勢で勝つことを、よしとしない。

同じ強さなら、より不利な方、小さい方が優れている。

理を以て勝ってこそ、意味がある。

古の日本人の民度や精神性の高さが、そういった価値観からも伺い知ることができるのではないでしょうか。

武術においても、小柄な達人が殊勝に持ち上げられるといった現象が、今現在も続いています。

しかしながら、近代以降の格闘技やスポーツ科学の進歩や発展は、留まるところを知りません。

柔道や空手道といった競技化された武道においても、欧米とのトレーニング理論や指導力の差は歴然としてきており、母国であった日本が技術を海外から輸入することで、どうにか闘えているというのが現状といっていいでしょう。

有効な技術が浸透し、以前は可能であった“小よく大を制す”ことが、世界規模では年々難しくなってきている。
同体重ですら勝てなくなっているのだから、無差別級で勝つのは至難である。

おそらく昔日の“小柄な達人”たちも、現代のトップアスリートと競技という形式での対戦に望めば、まったく太刀打ちできないという厳しい現実を突きつけられることも、大いに考えられるのではないでしょうか。

しかしながら、あらゆる物事には長短の両面というのがあるものです。

長すぎる得物は取り回しに難儀し、重すぎる得物は緩慢な動きでしか扱えない。
それは武器術に限った話ではなく、無手の体術にも当てはまる普遍の「力学」でもあるのです。

競技人口が増え、ルールが整備され、選手たちの技術も高度に専門化していく。
しかし先鋭化しすぎた技術というのは、鋭角の刃物のような脆さもある。
ルールの裏をかき、その脆さを突いて勝機を見いだすことも、あるいは不可能ではないかもしれません。

また、ルールが存在しない乱闘のような状況においても、ルールに囚われた動きや思考といったものが足枷となってしまい、敗北を呼び込むこともあり得るでしょう。

一見すると「これは勝ち目がない」「不可能だ」と思えるような場面や状況でこそ、創意工夫や“術”が必要とされ、それを求めることで智慧も得られる。

能見師範は生徒たちに、よく語って聞かせます。

「自分よりも大きい者、重い者、速い者に勝つ。そのための武術だよ」
「体格差や年齢差、素質の差を克服する」
「それが出来て、はじめて人を感動させることができ、価値も生まれる」

実際に師範は、身長190センチ以上で体重100キロ以上もある外国人を相手にしても、ごく自然に技を効かせてかけてしまいます。
しかも、それらは心術に頼ったものでもなければ、相手が空気を呼んで飛んでいるというようなこともない。
術理を駆使することによって、力学的に効率よく技をかけているに過ぎないのだといいます。

しかしながら、純粋な力学であるがゆえに、当然のように物理的な限界というのも訪れます。
その限界を知ることこそが、小よく大を制すための、最初の一歩でもあるのです。

「自分よりも七分から一割以上も長身の相手には、よくよく入り方を考えなければならない」

「二割以上重い相手には、極力、投げなどは使わない」

「骨格の大きな相手は、その構造を崩すか、隙を突く」

「著しい体格差がある場合は、奇襲技も用いる」

「とにかく攻撃力を上げること。それで相手を止められる場面が増える」

「止めなければ、あるいは崩せなければ、実戦の場では大きくて強い者には勝つことは困難になる」

上記のように、さまざまな状況や技法の特性を把握していき、それらを巧みに組み合わせて応用することによって、小よく大を制すための道筋が、はっきりと見えてくるのです。

また反対に、小柄な相手への警戒点なども、力学的に明確に現していきます。

「小さな者は技の回転が早いので、不用意に入り込ませない」

「軽い人間は速いが、速く動くほどに崩しやすい面も出てくる」

「小さくても、重さも速さも兼ね備えた手練も稀にいるが、重さを出すために必ず居着くので、そこを制す」

すべては力学であり、どれほどの地力を備えて随時応変に対応できるかに集約されてくるのです。

力学的に正しいからこそ、再現性も伴い、競技の場でも使えるような技術になる。

「武術は数学のようなもの」とも、能見師範はよく語って聞かせます。
加減乗除からはじまり、方程式や代数学や幾何学なども扱えるように深化させていく。

その過程は、その場基本から移動基本、空手の型や古武術の練体を通して、約束組手や自由組手、対複数戦や武器術までをも網羅する、光圓流の稽古法と共通する部分が非常に多いといえそうです。

足し算引き算で数値化できそうな能力を、まずは鍛えていく。
武術の稽古でも、そういった具体的な取り組み方は、とても有効な手だてとなる。

速度を上げる。重さを増やす。それらが攻撃力を養い、さらには危険を察知したり、的確な状況判断を下すといった能力にも繋がっていく。

小よく大を制すという、素人目には神業にさえ見る技法も、そうした地道な積み重ねの先にこそある。

地道な稽古のためには、上達のための物差しが欠かせません。

その基準こそが「基本」であると心得て、力学という自然法則と逃げずに向きあうという意志を携えたなら、光圓流独自の稽古体系の意味や奥深さにも、自ずと思い至るときが訪れることでしょう。