光圓流のアーキテクチャ

当流には、さまざまな方々が学びに訪れます。
その内訳は、他流の武術や格闘技の経験者が、およそ半数を占めています。かなりの割合だといえるでしょう。

武術に長く携わっていたり、多くの社会経験を経てきた人ほど、光圓流の合理的な指導を体験して、即座に技や動きが修正され、上達を実感できることに驚かれます。

光圓流は『理系の空手』と評されることが度々あります。

もっとも強い技、効く技、決まりやすい技を、力学的に解明していき、誰もが実践できるまでに解きほぐし、土台からひとつずつ組み上げていく。
そういった究極ともいえる稽古体系が、すでに確立されているからでもあるでしょう。

能見師範には、理工学系の上場企業や外資系企業に、情報処理技術者として勤務していたという経歴があります。
そこでの経験が、現在の光圓流の指導体系を築いていく上で、少なからぬ影響を与えているのも、理系の空手と呼ばれる一因になっているのかもしれません。

大手企業であれば、人材や設備といった経営資源の確保もできており、教育や研修の制度なども整っています。
現場での予期せぬ失策に対しても、速やかに事態を収束させ、再発を防止するための対策を施すだけの、技術的な蓄積があるのが当然となっています。

省みるに、武術界はどうでしょう。

教育や研修以前に、手をかけて人材を育成しようと努めている組織の方が、ずっと少ないのが現状ではないでしょうか。

競技化されている武道の試合などを見ても、世界のトップと渡り合える選手は年々減っていく傾向にあり、指導者の質も海外と比べれば偏りがあるのは否めません。

武道界全体を以てしても、国内の大企業一社ほどの人材育成能力があるのかどうか。
そういうふうに照らし合わせてみると、日本の武道における指導の現場では、どれほどの損失が積み重ねられてきたのか、気が遠くなるほどの思いに駆られることでしょう。

剣道や柔道のように、組織化されてからの歴史も長い武道団体であれば、それでも中小企業並の人材を確保しており、競技への取り組みによって指導体系も相応に整っているのがうかがえます。

しかし空手や古武術の世界では、そこまでの人材育成の技術の蓄積がある流派や組織というのは、数えるほどしか存在しないといっていいのが現実かもしれません。

代わりに蔓延っているのが、派手さや外連でごまかしたり、ことさら神秘的に見せようとするといった悪しき風潮です。

このままでは空手や古武術の世界に、よりよい人材が集まってくるような土壌は、今後も育たないことでしょう。

光圓流が技法を公開するに至ったのも、そのような日本の武術界の現状に、波紋を投げかけることが目的のひとつではありました。

能見師範は十五歳から二十五歳までの十年に渡り、競技空手や近代格闘技を通じて、いわゆる“実践的な技術”の追求を積み重ねてきました。

しかし二十代の半ばに事故で大きな怪我を負い、それまで通りの“身体能力”や“運動神経”に頼った動きができなくなったことによって、より普遍的な技術を模索するようになります。

また二十代後半からは、加齢の影響も徐々に出始めます。
実践者として、そういった現実とも向き合うために『体を傷めない稽古体系』の構築にも取りかかります。

その過程で何よりも役立ったのが、摺り足を起点とする『古武術の行法や連体』であり、沖縄空手の『闘える型』だったのです。

試行錯誤していくあいだに、立ち方や姿勢といった『基本の重要性』を再認識したり、使える技法と使いにくい技法の差違にも気づき、どこに原因があるのかも突きとめていくことになりました。

組み合わせることが困難な技術や、補強運動や練体を過度に取り入れることによる弊害なども、実践と反省の繰り返しの中で、次第に明らかになっていきます。

やがて、それらの試みは、ひとつの帰結に至ります。

「これは一から、白紙から、技術を再構築していった方が早い」

「すべてを根本から見なおし、土台から築きあげていくことによって、誰もが上達できるような、本質的な武術の指導体系をも打ち立てられることだろう」

「既存の武術のモデルチェンジや融合ではなく、まったく新しいアーキテクチャ(構造)によって、100年後も通じる基本設計を備えた、不変の武術を創成してみせよう」

能見師範は、そのような“設計思想”を抱くようになります。
過去に情報機器や光学機器の開発現場にたずさわっていた経験も、そうした設計を描いていく上で大いに活用していくことになりました。

思想を実現化させていく手始めともいえるのが、これまでに築きあげてきた武術の基本構造を、空手の稽古体系としてまとめ上げた『光圓流空手』の公開と門戸開放でした。

一般への指導を開始して九年が過ぎ、今年(2017年)で早十年目を迎えます。

「基本は不変でありながらも、どのような状況やルールにも対応できる実践性と応用力を」
そうした理念のもとに、一般の生徒たちにも出来うるかぎりの技術指導を行ってまいりました。

現在では、武術や格闘技の未経験者でも、一年もあれば充分に試合で活躍できるだけの指導法が確立できています。

ポイント制の寸止めルールでも、顔面攻撃有りのグローブ・ルールでも、光圓流独自の基本をしっかりと練り込んでおきさえすれば、短期間のうちに対応が可能だということもわかってきました。

「伝統派空手のスピードと、フルコンタクト空手の重い攻撃を兼ね備えた空手があれば、最強ではないかと思っていましたが、存在しないと諦めていました。けれど光圓流に入門して、ようやく探し求めていたものに出会うことができました」

そのような感想を述べられた空手経験者もいらっしゃいます。

また別の入門者は、こうも尋ねてもこられました、

「伝統派もフルコンも経験してきましたけど、早さと重さを両立させるのはとても難しいです。それに間合いも、まったく違ってきます。足払いや投げ技も、光圓流で学んでいる生徒さんには驚くほど通じにくい。さまざまなルールや状況に適応できるのは、なぜなのでしょう?」

「一から築いてきたからです。稽古体系こそ空手としてまとめ上げていますが、立ち方や足運びといった基礎の部分からして、まったく違うんですよ。上辺のいいとこどりは通じないのが、この自然界の法則ですからね」

能見師範は、そう笑って答えます。

さらに生徒たちには、次のように話すのです。

「今ある武術の大半は、半世紀後にはいっそう形骸化が進み、一般層からは見向きもされなくなっているだろう」

「大きな組織や、学校教育や部活動に組み込まれている武道の団体は残るが、競技への特化が今以上に進み、よりスポーツライクになって本質からは遠ざかっていく」

「武術である必然性は、どこにあるのか。それを示していくのが、在野の武術団体の役目」

「不変の基本を、身に宿すこと。百年後も変わらずに、試合の場でも使えるような」

「本質をそなえたものは、古くならない。芸術品だって、建築物だって、本質をそなえたものは、時代が変わっても通用する」

「武術も、それができてはじめて、普遍の文化として受け入れられる」

 

能見師範の技も、この数年のあいだに、さらなる凄みと冴えを湛えるほどに深化しています。

触れた刹那に相手が転倒する。
それも他流で五段を所得しているような重量級の高段者が、手足に触れられた瞬間に崩されて、即座に地面に叩きつけられるといった具合に。

光圓流を興した九年前の時点で、そのような技が十年以内に常用できるまでになると、師範は青写真を描いていたといいます。

また、そこまで極まった技法というのは、自由組手以上に予測不能な不意打ちされたときのような状況下でこそ、絶大な効果を発揮するということも、近年の実践研究で明らかになってきました。

十年後を明確に描ける空手。

優れた基本構造と設計思想が備わっていて、はじめて体現できる極まった武術。


光圓流の基本構造は、単純明快です。

それは自然法則そのものでもあり、誰しもが日常の生活で覚えているはずのことを、最適化させて集積していった結果でもあるからです。

単純にわかりやすく伝えていくためには、本質を深く知っておかなければならない。
明解ということは、あらゆる蒙昧から解き放たれているということでもある。

当流の稽古は、本質を深く知り、蒙昧から離れるために存在しているともいえるでしょう。

それらを体系化し、明文化していく。

 

己自身を築きあげ、あとに続く人材を育てていくためにも。

光圓流の基本構造は設計思想と表裏一体。

十周年を迎える光圓流は、百年後を見据えて、新たな動きに取り組んでいくことになります。

それもまた、設計の段階で折り込まれていた思想の一端であり、計画の一部ともいえるでしょうか。