文化の存在意義

 

「これほどの完成度と対応力をそなえた空手は、光圓流の他には存在しないと思います。都市部に道場を構えれば、入門者が続々と現れて、急速に広まることでしょう」

そのような意見が数年前から、体験入門をはじめ、さまざまな方々から寄せられるようになりました。

他流派の支部長や、目敏い企業家が訊ねてきて、「光圓流さんの空手は、確実に流行るから、一緒にやりましょう」と、業務提携の話を熱心に持ちかけてきたりしたこともありました。

能見師範は決まって答えます。

「流行ると廃るし、広めても薄れますよ」

「深めないと、人を育てることはできません」

「そのために今は、少人数制でつきっきりで教えて、指導法を研究し、指導力を限界まで伸ばしているところです。故郷での地域貢献も兼ねて、自分自身が武徳を積むためにも」と。

また、体験入門に訪れた旧知の格闘技経験者が、能見師範の実技を十数年ぶりに目の当たりにして「試合に出て結果を出せば、あっという間に広まるのに」と驚いてみせたこともありました。

しかし師範は笑って答えます。

「自分ひとりが一過性の結果を出したところで、ただの紛れかもしれないし、単に素質に恵まれていただけじゃないか、で終わってしまう。それは武芸や格闘技の領域だよ」

「人を育てないと。それができて、はじめて普遍の術になり、文化になるんだから」

音楽や舞踊の指導者や、美術家や建築家が、人づてに光圓流の存在を知り、見学に訪れたこともありました。
他分野ながら、多くの生徒を指導されてきたり、長年にわたって作品を手がけてこられた方々の眼力はたしかで、能見師範の実技を見て「抽象絵画のよう」「生きた建築物のようだ」といった感想を述べられていたようです。

稽古後には他分野の指導者たちとの座談会が開かれ、積極的な意見交換がなされました。

「文化の真の目的は、人間を育てること」

「そういう意味では、クラシック音楽や舞踊や武道は、それなりに巧く機能していますね」

「ピアノのアレクサンダーテクニークとか、クラシックバレエの基本練習などは、人間の身心に中心軸を備えさせる体系が、かなりのレベルで出来あがっています」

「西洋人のいちばんの強みって、クラシックとバレエによって育まれた身体性に根ざしているのではないか、と感じることがよくあります」

「建築にしてもシステム設計にしても、西洋では社会のいたるところに、プリンシプル〔主義や原則〕というのが見て取れる」

「それに引き替え、日本は街並みにしても服装にしても、ほとんどがその場しのぎの寄せ集めで、まとまりがない。見ていて落ち着かない」

「独自の文化や歴史が途切れてしまって、人々の心までが寄る辺なくさまよっている」

「和魂洋才の和魂さえも見失い、形だけは和風でも、劣化した別物の何かになってしまっている」

「基礎や基本がないから、人間にも芯や肚というものが備わらない」

「基礎が弱いと、サブカルチャーのように消費されるだけになってしまいますからね」

「そのあたりまで見抜けるようになると、明治以降の日本の文化と呼ばれるものは、その大半がサブカルだったんだなあと気づいてしまうんです」

「政治も思想も学問も文学もまったく同じで、人を育てるという原理原則が、近代日本では恐ろしいほどに欠落しています」

「また、そうなるように見えにくいかたちでコントロールされてきているのではないかと」

主義や原則が欠落しており、人を育てることができない。
それは武術や武道の指導の現場でも、無惨なほどに当てはまるのではないでしょうか。

舞踊や音楽を学んでいる者なら、一年も経てば誰であれ、それなりの技巧を身につけているものです。
そこには指導に際する膨大な技術の蓄積が見て取れます。

しかしながら、日本の武道の現場ではどうでしょう。
一年経っても、軸も通らず、立ち方も歩み方もままならない。
ちぐはぐな状態のまま、手足だけで技をかけ合っている。
そういう者が、あまりにも多く見受けられはしないでしょうか。

慣習に任せた通り一遍の稽古。
目の前の習い事で手一杯で、視野狭窄を起こし、他分野から真摯に学ぼうとしない態度。
そうした怠惰と驕慢が、国内における武道の衰退を招いているように見えてなりません。

文化の存在意義のひとつに、物事の意味や価値を見いだす、というものがあります。
ひとつの文化に精通することで、他文化のクオリティまでもが見抜けるようになる。

一流の踊り手は、演奏者の腕を見抜く。

一流の料理人は、素材だけでなく、器や刃物のよしあしも見抜く。

武術を志す者も、他文化と接したときに、せめて恥ずかしくない程度の眼力は備えておきたいものです。

 

(剣道や柔道のように競技人口の多い武道では、四段くらいになると他武道に関しても、相応の眼力というのが備わってくるはずです。

長い経験の中で、力学的な優劣が見抜けるようになり、また指導を通じて練度の重要性などにも思い至るからこそでしょう。

 

しかし四段を取得するまでには、相当な時間と労力を積み重ねなければなりません。

また競技を経ていない武術や武道では、何年かかっても力学的な見解を得るまでにはいたらず、練度や応用力の重要性にも気づけないままといったことが起こりうる)

物事を見抜く眼を養う端緒として、他武術への出稽古を行うのもいいでしょう。

技の効きや質の違いがわかれば、じきに練度が見えるようになる。
高い練度の背景にある原理原則や、さらには根底にある思想までもが、いずれは見て取れるようになるかもしれません。

練度こそが、クオリティでもある。
そこまで見えてきて、ようやく他文化の価値や意味合いをも、正当に評価できる基準というのが定まってくるのではないでしょうか。

当流でも、他流の武術経験者の体験入門を歓迎しております。
しかし、掛け持ちでは限界がありますから、体験に訪れた他流の人々の多くが、その後は移籍するかどうかで悩み続けることになるようです。

現状に甘んじるのも、ひとつの修行ではあるでしょう。
だが、いつまでも停滞を続けるのだとしたら、それは武術的な選択だとはいえそうにありません。

感動を力に変え、前に進む。

感動を生み出すのが文化の役割でもあり、前に進むという思想や原則こそが、武術を多種多様な文化の中でも、際だたせて格別のものとさえしている。

そこに思い至ったとき、光圓流の技術体系や存在意義にも、いくらか実感がともなって理解が進むようになるのかもしれません。