菜食のすすめ

 

長く稽古を続けていると、好不調の細かな波が絶えずあることに思い至ります。

わずかによくなっていると感じられる部分もあれば、しっくりこない箇所もある。
それらは要素を解きほぐして吟味していくことによって、次第に原因が掴めてくるものです。

ほんの些細な感覚の違いで、動きの要所が崩れてしまったり、技がかからなかったりするような事態も起こり得る。
そういった場合は、心因的な要素が大きく作用していたりもするのです。

また動きそのものが悪いときなどは、身体の不調と直結している場合が大半だといえるかもしれません。

体の一部が凝り固まっていたり、古傷が主だった理由もなく再発していたり、あるいは疲労が蓄積して抜けずにいたり。
そのような場合は、たいてい血液が澱んでいて、内臓にも汚れが溜まっていたりするものです。

身体が澱んでいくのは、食事による積み重ねというのが、非常に大きな要素となってきます。

そのことに能見師範は二十代半ばに気づき、断食や玄米菜食を取り入れるようになりました。

断食は一日だけ行う場合もあれば、最長で一週間ほど継続したこともあり、具体的な効用や新たな課題を得ることが適いました。
(これについては、また稿を改めて「断食、そして不食に至る道」として記すことになるでしょう)

能見師範が最初に玄米菜食を継続的に行ったのは、二十五歳の頃でした。
稽古を続けているのに持久力が続かなくなり、筋肉が硬く凝っているのに気づいたのが、ひとつのきっかけとなったようです。

鳥取県産の玄米と味噌を用意し、野菜たっぷりの味噌汁、漬け物、豆腐や納豆という粗食を、しばらくは繰り返すことになりました。

最初に実感したのは、持久力の回復でした。
菜食をはじめて三日目くらいから、激しく動いても鼓動が妙に安定していて、息も上がりにくくなっているに気づきました。

一週間も経つと、血液がさらさらになっている様子で、心拍数が速くなると心臓のあたりが、すーっとする感覚が起こるようになります。
それまでは内燃機関(エンジン)のように、どくんどくんと脈打っていた心臓が、まるでモーターさながらに静かに動いているので不思議だったといいます。

その間にも体脂肪率が徐々に落ちていきました。
体重の減少は数日で止まったのですが、ほとんど筋肉量は減っていないまま、その後も体脂肪だけが落ちていくのがうかがえました。

また最初の二週間ほどは、持久力が向上した代わりに、瞬発力や最大筋力が衰えたようでした。

ところが稽古をするたびに、長きに渡る疲労の蓄積で凝り固まっていた筋肉や腱が、ほぐれていくような体感が起こりはじめます。
ずれていた骨格が練体を行うことで適正な位置に戻りはじめ、体の使い方や呼吸の仕方までもが改善されていくことによって、瞬発力や最大筋力も上昇するのが体感できるようになっていきました。

内臓の機能も正常化が進んだのがうかがえ、消化吸収や代謝もよくなり、疲労が残らなくなっていきます。

日本では本来、肉を食すという習慣がなかったのですから、それも当然といえるのかもしれません。
これまでは慣れない肉食によって、内臓を無駄に酷使していたともいえるでしょう。

菜食を続けていると、他にも気づくことがいくつか出てきます。

精神的な安定度が増し、怒りや嫉妬や欲望といった刹那的な感情に振り回されにくくなります。

そうした安定感は日常生活だけでなく、稽古や組手にも直結していき、闘い方や武術に対する考え方にも、大きく影響を及ぼすようになっていきます。

嗅覚が鋭くなったり、気配にも敏感になります。

(心術や気功の類は、菜食によって自らも用いやすくなると同時に、操られやすくもなるので注意しなければなりません)

味覚も繊細になるため、野菜のおいしさを、より深く味わえるようになります。

そうすると、これまで肉を食べていたときに感じていたのが、味覚による満足などではなく、脳内物質の奔流による錯覚であったことにも思い至るはずです。
肉や魚がなければ物足りないばかりと思っていたのは、一種の中毒症状だったと気づくことになるでしょう。
そこまで達すれば、菜食を続けることにも、心理的な苦痛や抵抗はなくなっていきます。

初回の玄米菜食は半年ほどで切り上げることになったとのことですが、充分な効果が得られるのがわかったこともあり、能見師範はその後も折りを見ては、菜食や肉断ちを行うようになっていきました。

完全な菜食に取り組む場合、まず気をつけなければならないのは、鉄、蛋白質、カルシウムといった特定の栄養素が不足しがちになることです。

鉄分の補給には、鉄のフライパンや鉄瓶を使うのがよいでしょう。それだけのことで、必要充分な鉄が摂取できるようになります。

果物、胡麻やひまわりの種、木の実、山菜、海草類を取るのも、微量な元素、ミネラルの補給には有効です。

 

ごま油、亜麻仁油、オリーブオイルなど、油を使い分けるのもよいでしょう。

蛋白質とカルシウムは、豆腐、納豆、豆乳といった大豆製品を取ることで、効率よく補給できます。
近年は大豆を原料にしたソイミートなども普及しており、創意工夫次第で肉料理の代替品として使うことも容易になってきました。

ベジタリアンやヴィーガンが先進国では増加したこともあり、外食店でも菜食に対応してくれるお店や、ヴィーガン料理専門店などが、日本国内でも急速に増えています。

欧米の知識層が急速に菜食主義になっているのを見てもわかるように、この流れは今後も加速していくことでしょう。
菜食を開始するのであれば、今が好機かもしれません。

(プラント・ベースという考え方も広まってきています。
 プラント〔植える・植物〕を土台とした食生活のことで、ヴィーガニズムが社会運動と一体化して過激になってしまったイメージを払拭するために、新たに用いられるようになった標語です)
菜食に至る経緯は、健康のため、動物愛護、環境保護など、多種多様でしょう。
共通しているのは、今のままではよくないという意識をもって、具体的な行動に取り組もうとしているあたりになるでしょうか。

少しでも現状を変えたいという意識があるのなら、菜食を試みるのは、とても有効な手だてとなり得るかもしれません。

古来より哲学者や賢人には、菜食主義者の名が並んでいます。
ピタゴラス、プラトン、ダ・ヴィンチ、ルソー、トルストイ……。枚挙に遑がないほどです。

近年では、テニスのジョコビッチやF1ドライバーのルイス・ハミルトンなど、肉体を酷使するトップアスリートにさえ菜食主義者が現れはじめています。

人間の可能性を知るためにも、菜食という方法論には、身を以て探求するだけの価値があるともいえるのではないでしょうか。

菜食を実践していく課程で、流通している食品の大部分が、添加物まみれだという事実にも直面するでしょう。

鰹だし、チキンエキス、ポークエキス、ビーフエキス、牛由来のゼラチンなども多用されており、完全菜食を続けるための智慧や根気も試されていくことになるかもしれません。

農薬の危険性に気づくこともあれば、有機農法や土壌の重要さに思い至る機会も訪れるでしょう。

安心して食べられるものが、ほとんど日本国内は流通していないといった現状に、愕然とすることもあるかもしれません。

だからといって、過剰に気にし過ぎるのもよくありません。

なるべく、かたちや産地や生産者のわかるものを選ぶ。
できれば、自らの手で調理をする。
そういった基本を押さえることによって、まずは少しずつでも食の質を向上させていけばよいのです。

そこからさらに思考を発展させて、農業や家庭菜園をはじめる人々も現れるかもしれません。

能見師範の実家の裏庭には、さまざまな野菜や果樹が植えられています。
茄子、じゃがいも、ミニトマト、葱、韮、大蒜、山葵、オクラ、茗荷、ミント、ブルーベリー、シークァーサー、蜜柑、葡萄……。

菜園から必要な分だけ、季節の恵みを収穫していただく。
そういった素朴な営みから、自然への感謝の念を覚えたり、生きることの本来の意味を思い起こすことさえも少なくはないといいます。

家庭菜園から穫れるものだけでも、激しい運動さえしなければ、生命を維持していくことは難しくはないのです。
そのような感覚が宿れば、いたずらに我欲に振り回されるようなこともなくなり、思慮もより深まっていくことでしょう。

武術を修めている意味合いについても、一層明確に自覚できるようになるかもしれません。

明確な自覚を備えた人材が増えないかぎり、日本の伝統文化は形骸化していく一方になり、貴重な歴史や智慧までもが失われていくことになりかねないのです。

あらゆる生き物の中で、人間だけが自覚的に食べるものを選ぶことができる。
食事というのは、自らの身体や精神に何を取り込むのかという、ある意味では創造的な試みともいえるのでしょう。

自覚的になって食材を選び続けることでしか、気づくことすら及ばない領域というのが、実のところ想像以上に大きく広がっているのが、この現代社会といえるのかもしれません。