刎ねない空手


日本の武術の特徴のひとつに「擦り足」で動くという要素があります。
剣術でも柔術でも、古くからの技術が残っている流派ほど、擦り足を活用する体系となっている。

そこには着物や履物による長年の生活習慣や、ただ勝ちさえすればよいというものではなく、理を持って勝ってこそ術であるという、日本人特有の美意識までもが見てとれます。参考『着物と履物――生活習慣が培う身体性』

しかし明治の文明開化以降、多くの武術は武道へと再編され、競技化を推し進めていくことになります。参考『近代空手のはじまりと“空手道”化』

結果として、試合の場で「擦り足」で闘う選手は、見る間に減っていきました。

剣道は正面打ちを重視して、前足を上げて後足で踏み切って飛び込んでいくように。

柔道は最初から組みあうことを前提として、組手争いや重心を落とすのに最適な横方向に広がった立ち方に。

空手も伝統派の寸止めの試合では、剣道を模倣した飛び込みと、ボクシングを参考にしたフットワークが多用されるようになっていきます。

また顔面攻撃無しのフルコンタクトカラテでは、ほとんど足を止めた至近距離で打ち合う技術と、そのための体づくりが重視されるようになる。

これらは、何によってもたらされた現象なのか。
それぞれの競技のルールによって、その競技内で勝ち抜くために、もたらされた現象といってよいでしょう。

たしかに飛び込めば、遠間からの攻撃がしやすくなる。

飛び跳ねるようなフットワークを使えば、それ自体が変拍子となり、技の起こりを誤魔化しやすくなる。

逆に、どっしりと腰を落として足を止めた方が、初心者でも安定した姿勢を維持しやすくなる。

こういった動きは、やはりルール内では有効なのです。
それゆえ多くの選手が、それぞれの競技で勝つために取り入れていくようになりました。

その結果、日本の武道は、どのような変化を遂げたか。
古来の日本の武術家が、現代の武道を見たとき、いかなる感想を抱くのか。

競技としては、たしかに進化を遂げてはいるのです。
しかしながら、ひとつの試合形式に特化しすぎたばかりに、ひとたびルールが変わると、まるで勝手が違ってくるということが起こり得る。

武芸十八般を旨とした昔日の武士ならば、顔をしかめるような競技的な動きというのも、近代の試合の場ではめずらしくなくなっているのかもしれません。

光圓流では、飛び跳ねる動きというのを、極力抑えるように稽古していきます。

そうすることで、空手の型や武器術を、組手に活かすことが可能となっていくからです。

古流の空手の型や武器術には、軽快なステップや地面を蹴って跳ぶという動作が、ほとんど見受けられません。
それゆえ跳ぶという要素を取り入れると、多くの場面で親和性が失われていってしまうのです。

(沖縄空手のクーシャンクーやチントウといった型には、飛び二段蹴りが出てきます。けれども、あの動作には“地を蹴らずに跳ぶ方法を身につける”という要素が、じつは隠されてもいるのです)

また光圓流では『地擦り足』という行法を採り入れています。

擦り足は相撲の基本でもあり、重く強く当たっていくためには、欠かせない鍛錬法でもある。

また大地に添った歩法を身につけることで、やがては足捌きも無限軌道を描くようになり、すべての動作が入身や捌きを兼ねるように深化していくのです。

歩法による捌きといえば、空手の型の中にも無数に出現してきます。
否、空手の最大の特徴は、この歩法による捌きと、攻防一体の当身に現れているといっても過言ではありません。

地に添った型を打ち続ければ、いつしか間合いの制御も身についている。

そこには入身や転身や転換までもが内包されている。

ただし、地を蹴ってしまえば、そうした理からは離れていってしまう。

光圓流では「刎ねない空手」という教えを説いています。

「刎ねる」というのは、原意は「跳ねる」と同じなのですが、さらに「切り離される」というような意味合いが加わる。
「首を刎ねる」などという表現に用いられるのは、切り離されるという感覚が強く込められているからでもあります。

組手で刎ねると、地の理から切り離される。
光圓流で稽古している人間であれば、それは白帯のうちから覚えていく理合でもあるのです。

刎ねないことで、地に添った動きが可能となる。

その上で正中線を制御できていれば、いつでも入身や転身ができ、重い拳足を放つことができる。

歩法の重要さに気づいている人間であれば、このあたりにも理解が及んでいるはずです。
しかしながら実際には、武術を何十年と続けている高段者といえども、そこまで見切っている人物は、ごく限られているというのが現状ではないでしょうか。


歩法を身につけるには、まず立ち方や姿勢がどれほど重要なのかを、知りつくしていなければなりません。
その姿勢や立ち方を、いかにして実戦で展開していくか。

歩法というのは、つまるところ全体が見渡せないと、意味や価値がわからない最奥にあるともいえます。

そこへたどり着くための足掛かりとして、当流では「刎ねない動き」を稽古していくのです。

具体的な稽古法についてまでは、ここでは記せません。

しかし光圓流で稽古を続けている生徒であれば、一年もあれば競技の地方大会で活躍できる程度にまで、歩法を活用できるようになっていくことでしょう。

 

「刎ねない空手」を身につけていけば、寸止めのポイント制でも、顔面無しのフルコンでも、グローブや防具を着けて顔面に当てる試合でも、適応力次第では即座に対応が可能なほど、幅のある地力が養われていくはずです。


ひとつの証左として、空手歴一年の生徒の動画を公開しておきます。

動画のJ君は、入門当時はスポーツ経験皆無の小学一年生でした。
田舎でのんびりと育ってきたこともあり、当初は前転(でんぐりがえし)もできないほどで、運動神経や反射神経にも恵まれていたわけではありません。

母親がいなければすぐに泣きだすような子供で、最初の数ヶ月は組手をしても、逃げるように後退し続けるので精いっぱいでした。

それでも、この程度の動きであれば、一年あまりの稽古で身につくようになるのです。

光圓流の黄帯の生徒は、一切の防具をまとっておりません。
防具に頼ると、五感六感が鈍り、間合いを見失うからです。

対戦相手の生徒は面頬と胴当てを装着しています。
水月や肝臓に重心移動のともなった突き蹴りを何度もくらっても倒れないのは、

防具に守られているからです。
しかし、それでは真の強さは身につかない。

 

黄帯のJ君は、まだまだ修行年数が短いため、足腰も弱く、立ち方や姿勢や運足も不正確で、余計な上下動や腰振り、足運びの浮きや遅れが目につきます。

肚の力も活かせてはおらず、間合いを読む能力や反応力も、この時点では同世代の平均程度かそれ以下です。


(これ以上に熟達してくると、奥伝の領域までもが動きに現れてくるので、今の段階では黄帯程度までしか、動画では公開できないという事情もございます。その点をどうか、お含みおきください)


それでも地に添って動いてさえいれば、わずか一年の稽古でも、勝機を逃さずに試合を制することが可能となるのです。

そのための道筋を、当流ではすべての門下生に惜しみなく指導しております。

 

「手は見せても、足は見せるな」

そう云われるほどに歩法は重要で、多くの流派では秘伝とされてきました。

 

しかし、このままでは貴重な日本の文化は形骸化する一方です。

ゆえに光圓流では、ただ単に失伝を防ぐだけでなく、新たな潮流を武術界に起こせたらという思いを込めて、技法の公開を推し進めているのです。


運動神経には自信はないが、体力と根性だけはある。できることなら選手になって活躍したい。
そういった志ある若手も、光圓流では選手候補として快く受けいれております。

また、年齢や体力的に本格的にやるのは厳しくとも、こつこつと自主練を続けて、人間的に強くなりたい。
そういった方も、一年半から二年も稽古を継続していけば、地方の大会で入賞を狙えるくらいの実力を身につけることは、決して難しくはありません。

ただし、やはり勝負というのは水ものです。
勝ち負けや結果だけに固執するのではなく、そこから何を学ぶかが、より重要だと考えます。

試合へ向けての稽古や追い込み。
試合前の重圧や恐怖感の克服。
試合場での昂揚感。

接戦の中で限界を突破する感覚。
勝利の歓びや、敗北の悔しさ。

負けたからといって腐ることなく、なぜ負けたのかを分析していく。
そして再び挑戦していく。

勝ったからといって慢心せず、わずかでも隙があったのなら、そこを改善していき、より大きな試合へと備えていく。

そういった繰り返しから、掛け替えのない経験と智慧が育まれていくことでしょう。

刎ねない空手を学びたい。
できれば、その技で競技に挑みたい。

 

そう思った方は、ぜひ当流へいらしてください。

 

せっかく日本の武術を学ぶのだから、よどみない擦り足を身につけたい。

自由組手で刎ねずに闘えるようになりたい。


そのような文化的な視点をもって取り組む方も歓迎いたします。

 

歩法が見えるということは、すでに素養があるということでもある。
その素養を活かすためにも、まずは体験入門で汗を流すことから、はじめてみてはいかがでしょうか。