近代空手のはじまりと“空手道”化

 

武術を学ぶ過程で、その源流への興味が募ることも、めずらしくはないでしょう。

光圓流も成立の過程で、さまざまな流派の影響を受けています。

なかでも沖縄空手によって与えられた変化は甚大で、それゆえ当流で学ぶ者は、空手の歴史や古の空手家への憧憬も自然と深くなります。

 

本土へ空手を普及させた父が船越義珍〔ふなこし・ぎちん〕ならば、その技術体系を造りあげた祖ともいえるのが糸州安恒〔いとす・あんこう〕といえるでしょうか。

 

ピンアンの型や、号令による集団での稽古法などは、糸州安恒が空手を学校教育に編入するために取り入れたものだと言い伝えられています。

空手を一般に広く普及させていく過程で「より安全に、わかりやすく、大衆的に」という編纂が行われたことは想像に難くありません。

 

それまでの空手は、沖縄の武士〔ブサー〕のあいだで、相伝的にマンツーマンで教えられるものでした。

おそらく攻撃力重視で、非常に実戦的なものだったはずです。

 

しかし、そのままだと一般層に指導するには危険すぎる。ましてや学校教育に組み込んで、もし怪我人でも出たらどうなるか。

一般向けには、正しい姿勢や健康増進のためとなる動きを中心に教えた方がよいのではないか。

実戦性や危険な技などというのは、精神性のともなった一部の高段者にだけ伝授すればよい。

知識人であった糸州安恒や船越義珍なら、当然そう考えたことでしょう。

 

貫手は危ないので、拳や手刀へ。

攻撃目標も、急所は狙わないように。

ピンアンの型などは、そのよい例で、一見しただけでは危険な技などは“陰”に隠れるようになっています。稽古を幾年も続けていく過程で、体が動くようになって、ようやく全貌が見えてくる。

なぜなら、ピンアンの原型となったのは、パッサイやクーシャンクーという本来の首里手の型だったからです。

 

パッサイやクーシャンクーですら、数年は打ち続けないと実際の意味というのは体感しづらいものです。

しかし、長年稽古を続けてきた糸州には「危険な技など型の中に用法として示さずとも、体が動くようになれば勝手に使えるものだ」というような確信があったのかもしれません。

それゆえ、空手の身使いができるようになった頃に、あらためてパッサイやクーシャンクーを教える、という指導法を築いていったのではないでしょうか。

 

このあたりは、明治以降の近代化や、日本の伝統武術が「術」から「道」へ変わっていった背景と、共通する流れにもなっています。

 

空手が本土へ渡って、まず模範としたのが、すでに道化〔どうか〕を推し進めていた剣道や柔道でした。

剣道の組み太刀のような約束組手や、柔道の道衣を模倣した空手衣などに、そうした名残が見受けられます。

試合形式も、攻撃の制限やポイント制の導入など、先に競技化を進めていた剣道や柔道の影響を、空手“道”は色濃く受けていきます。

 

また明治時代には、沖縄と内地では文化や生活習慣にも、かなりの違いが残っていました。

沖縄空手の型を、いきなり本州の人間に教えたとしても、なかなか調子が合わないといった現実もあったことでしょう。

沖縄には筋骨たくましい人が多いため、そのまま内地の未経験者が真似をすると、危険な稽古も少なくなかったはずです。

それゆえ簡略化したり、集団に合わせて比重を変えていかざるを得なかった稽古法も、多々あったのではないでしょうか。

 

そうした労苦や試行錯誤を経て、空手は日本中に普及していきました。

結果として、空手人口も大幅に増え、危険な技を封じることで競技化も進み、選手層も厚くなった。

 

よいこと尽くめのようですが、その過程で空手本来の技術が見失われていったのも、否めない事実ではあるでしょう。

 

相伝でしか教えられないような、緻密で高度な技法。

武器術との互換性や相乗効果。

無手ならではの当身の効かせ方。

急所を攻めることで可能となる多様な用法。

崩しざまの当身や、当身から投げへの連繋。

競技における駆け引きなど無視した“遊び”のない戦闘法。

 

そういった貴重な技術が“術”から“道”へという近代化の過程で、見失われていったのではないでしょうか。

 

近代化する以前の空手とは、どのようなものだったのか。

当時、実際に強い空手家は存在していたのだろうか。

 

もちろん具現者がいたからこそ、まだ空手を知らなかった内地にも支持する人々があらわれて、今日の空手の繁栄にまでつながっていったのは言うまでもありません。

 

空手の普及時には、本部朝基という“実践名人”が存在していました。

 

次回は、その“実践名人”の空手について、技術的な推論を繰り広げてみたいと思います。

 

(敬称略)