“実践名人”本部朝基の空手

 

歴史と同じく、武術史にも正史と裏面史がある。

表の空手道の歴史が糸州安恒や船越義珍によって編まれたものなら、その裏で絶大な影響力をそなえた空手術の使い手が存在していたとしても不思議ではありません。

 

文化の黎明期には、必ずといっていいほど、光の当たりにくい真の実力者というのが存在するものです。

 

空手に関しては、本部朝基〔もとぶ・ちょうき〕という実践名人が、まず筆頭に上げられるでしょうか。

 

本部朝基(Wikipediaより)

 

本部朝基は幼い頃から武を好み、数えで12歳(満11歳)の時より、首里手の大家・糸洲安恒を唐手の家庭教師として招き、長兄・本部朝勇とともに師事した。糸洲に師事した期間は7、8年だったと言われる。成長するにつれて、首里手の大家・松村宗棍や佐久間親雲上らにも師事した。また、泊手の大家・松茂良興作にも師事して、特に組手を教わった。本部は「武これ我、我これ武」というほど唐手の稽古に打ち込み、上記の諸大家以外にもおよそ名のある武人はすべて訪ねて教えを乞い、実際に立ち会い、唐手研究に没頭した。

 

     ―中略―

 

本部は唐手の稽古だけでは飽きたらず、当時の遊郭・辻町に出かけ、数々の掛け試し(一種の野試合)を行い、負けることを知らなかったと言われる。型稽古を中心とする当時の唐手家の中では異色の存在で、一部の唐手家達からは顰蹙(ひんしゅく)もかったが、24, 5歳の頃にはその武名は3歳の童子すら知らない者はないと言われるほどになった。

 

本部の唐手の特徴は、膨大な基本稽古と巻き藁突きで培った、剛拳である。後叙するロシア人ボクサー(巨漢であったが殆ど素人との説もある)を一撃で屠る拳打は沖縄本島での修行時代に、シマの猛者と練習したところ、倒され負けてしまい以降、マワシをとった姿勢からでも、一本拳での寸当てが出来るほど鍛えこんだと言われる。事実、写真でも証言でも「本部先生は、正拳と同じだけの力で一本拳の巻き藁稽古をしていた」と証言が多数ある。後年、剛拳ばかりでは体に悪いと兄である本部朝勇が取手の稽古を教えると、練習相手の突き蹴りを、反射的に叩き落してしまい、攻撃したほうが苦痛でうずくまり練習にならないほどであった。(本部御殿手の上原清吉も、修行時代では本部先生との取手の練習が最も大変だったと語っている)

 

     ―中略―

 

東洋フェザー級チャンピオンだった不世出のボクサー・ピストン堀口が大道館を訪れた[4]。本部は、堀口に遠慮無く掛かってきなさいと言うと、ドテラを着たまま、堀口のパンチをすべて捌いてみせ、入身して堀口の眉間スレスレに拳を突いてみせた。堀口は「駄目だ、全然歯が立たない、参りました」と一礼して、構えを解いた。本部は、この時六十歳を過ぎていた。

 

     ―後略―

 

 

沖縄中の武人を訪ねて回る行動力、野試合を繰り返してでも上達しようとする向上心など、現代日本人とは思考や行動原理が根本的に違うのが感じられます。

 

実力も圧倒的です。

マワシを取った状態からでも効かせられる当身。

10回戦ボクサーの攻撃をすべて捌いての入身。

当時の空手界の大家に、強い空手家の名を訪ねると、口を揃えたように「本部朝基先生」という答えが返ってきたといいます。

 

朝基の技法を知るには、何を重視して稽古していたかが道標となるでしょう。

 

・ナイファンチの型

・立ち方と運足

・巻藁による攻撃力の養成

・夫婦手による攻防一体の闘い

・次の手を出させない受け

 

現代の空手とは、かなり主眼が違っています。

当時は競技化された試合などありませんでしたから、朝基も短期決戦の野試合を想定して稽古していたのがうかがえます。

逆説すれば、現代の競技化された空手は、ルール内でしか使えない技や駆け引きが肥大化しており、短期決戦の野試合とはかけ離れてきているともいえそうです。

 

朝基の遺した語録からも、その実力や認識の高さがうかがえます。

 

本部朝基先生・語録

 

1. すべては自然であり、変化である。

2. 構えは心の中にあって、外にはない。

3. 夫婦手は唐手の欠かすことの出来ない定めで、日常生活の中でも――例えば酒を注ぐとき、盃を持つとき箸を取るとき等々――拳法修業者はこの定めを守るようにし、夫婦手の定めを自ら身につけるようにしなければならない。

4. 一見しただけで、その者の当身の力がどれほどのものか、見分けるようにならねばならない。

5. 当身の力の乏しい相手の攻めはいちいち、受けなくともよい。一気に攻めるべきである。

6. 唐手は先手である。

7. ナイファンチの形の足腰の在り方が、唐手の基本である。

8. ナイファンチの形を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立で、ナイファンチの型は左右、いずれかに捻って考えた場合、いちいちの動作に含まれるいろいろな意味が判ってくる。

9. 受け手がすぐ攻め手に変化しなければならない。一方の手で受け、他方の手で攻めるというようなものは、真の武術ではない。さらに進めば、受けと攻めが同時に行われる技が本当の武術である。

10 .真の唐手に対しては、連続突きなどは出来ない。それは真の唐手で受けられたなら、相手の次の手は出ないからである。

11. 面白いもので、自分は座ったまま、心の中で形をやると、自然と汗をかくのである。

12. 自分の唐手には、猫足、前屈、後屈などという立ち方はない、いわゆる猫足などというものは武術の上で最も嫌う浮き足の一種で、体当たりを食えばいっぺんに吹っ飛んでしまう。前屈、後屈などというのも不自然な立ち方で、自由な脚の働き、動きを妨げる。自分の唐手の立ち方は、形の時も、組手の時も、ナイファンチのように軽く膝を落とした立ち方で、自由に運足し、攻防に際しては膝を締め腰を落とすが、前にも後ろにも体重をかけず、いつも体重は均等に両足にかける。

 

中田瑞彦「本部朝基先生・語録」昭和53年(1978年)、小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収。全38語録の内、12語録を抜粋

 

 

1や2は、競技的な発想からは出てこない言葉ですね。

構えも用法も便宜に過ぎず、状況によって変化させるのが最善である。

わかってはいても、通り一遍の稽古しかこなしていないと、すぐに忘れてしまう勘所でもあります。

 

4と5の「一見しただけで、当身の力がどれほどのものか見分ける」「当身の力の乏しい相手の攻めはいちいち受けなくともよい」というのは、直接打撃制の競技でも護身でも重要になってきます。

外国人、特に欧米人は、このあたりの能力が秀でている者が多い。

格闘技の試合でも、欧米人は相手の攻撃力が低いと判断すると、一気呵成に攻めて来ます。

 

攻撃力に差がありすぎると、まともな闘いにならないというのは、倒し合いを経験した者であれば、誰もが実感していることでしょう。

当身を強くすることがいかに大事か、実戦経験の豊富な朝基も、身をもって知っていたに違いありません。

 

3の夫婦手、9、10の技法などは、素手や武器ならではの攻防の要所でもありますね。

グローブを着けた競技などでは活かしづらい技術ですが、失伝させてしまうにはあまりにも惜しい体系ではあります。

 

6の「唐手は先手である」というのも、常に実戦を想定していた朝基らしい言葉ではないでしょうか。

そこには先を取る、先に攻めるということだけではなく、相手に先を取らせないためにはどうすればよいのかという、奥深い智慧が感じられます。

またその智慧こそが、争いを未然に防ぐという、武の本質であり根元的な智慧でもあるのでしょう。

 

本部朝基が遺した言葉や、ナイファンチの連続写真などを見ていて強く感じるのは、やはり高い攻撃力と瞬時に勝敗を決するという覚悟や精神性です。

着物に履物という生活をしていたこともあり、立ち方や腰の据わり方も、現代人とはまるで違うのが見てとれます。

 

ナイファンチの写真では、中心軸を乱さずに波返しを行っているのがわかります。当時のシャッタースピードは遅かったでしょうから、かなりの時間、片脚を上げたまま空中で静止しているはずです。強靱な深層筋がなければ、ここまでの姿勢を保つことは不可能でしょう。

 

朝基の心身には、武術が日常的なものとして根づいていたはずです。

そういう感覚が備わっていたからこそ、六十歳を過ぎても尚、高い実力を実戦の場で示すことができた。

 

百年もの昔に、これほどの傑物を生みだした沖縄の風土と空手という文化に、あらためて畏敬の念を覚えずにはいられません。

 

時代における超越度ということでは、本部朝基以上の空手家は他に存在しないといっても過言ではないかもしれません。

 

武術を志す現代人にとっても、実戦で実力を証明し続けた本部朝基という偉人は、最高の研究対象として今後も語り継がれていくことになるのではないでしょうか。

 

壮年期の本部朝基

 

座していても体軸が垂直に立っており、肱〔カイナ〕を返した姿勢を意識的に取っている。

 

鉤突きを応用した首里手の逆突き

 

脇を絞め、腰〔クシ〕を入れた強烈な突きであることが見てとれる。

 

雪駄履きで稽古しているところにも着目したい。

 

okinawan-shorinryu.com(本部朝基によるナイハンチ実演の連続写真が拝見できます)

http://www.okinawan-shorinryu.com/graphics/motubu_naihanchi.gif

 

(敬称略)