正眼に構える意味


光圓流では入門してしばらくのあいだ、徹底して“正眼の構え”を身につけます。

両の拳、あるいは掌を、正中線を挟み込むようにして、中段に構える。
そこには多層的な深い意味合いが込められているということが、稽古を継続していくうちに段階的に理解できるようになっていきます。

様々な武術や格闘技の経験者が、当流には学びに訪れます。
その中には海外からの入門者もいらっしゃいます。

外国人には合理主義者が多いためか、以下のような質問がなされることが、過去に幾度かありました。

「ガードを上げて高く構えないのは、なぜですか?」
そう言ってアップライトに両手を掲げ、ファイティング・ポーズを取ってみせるのです。

能見師範は「中心をつくるためですよ」と決まって答え、さらに続けます。

「最初から上段に構えると、重心が上がってしまう」
「両手を開いて構えると、初心者の場合、正中線が見出せなくなる」
「中段に構えることで腋が締まり、頭突きや組み打ちへの対処も格段にしやすくなる」
「正眼の構えを最初に覚えることで、武器術への応用も淀みなく行える」

師範が説明しながら実技を見せると、合理的であるはずの外国人ほど「本当によく考えられていますね」と驚くことになるようです。

光圓流にも、上段の構えは存在しております。
天の構え、火の構え、袈裟構え、逆袈裟構え、開闢の構え、等。

顔面攻撃のある試合形式では、それらの上段の構えを多用していくことになりますが、最初から「上段」に構えているかといえば、そういうわけではないのです。

離れた間合いでは、構える必要性はありません。
間が詰まってきたとき、自他との関係性において、はじめて構える意味が生じてくる。

相手が顔面攻撃を多用してきて、それを腕によって守らなければならない場面が予測できたとき、ようやく上段の構えの出番となるのです。

“実戦名人”であった本部朝基が述べたように「構えは内にあって、外にはない」
その教えを光圓流では、実践しているともいえるでしょう。

光圓流の高段者は、自由組手の際でも、まず最上段に構えることはありません。
それでは応用力がなくなり、自らの動きをも狭めてしまうことになるからです。

“腕によって上段を守らなければならない”という限定的な状態におかれる前に、先んじて相手を制してしまうことが、武術としては理想といえるからでもあります。

しかしながら、ルールのある競技や限定された状況下では、そこまで完全に相手を制することは至難を極めます。
だからこそ光圓流では、机上の空論に陥らないためにも、上段の構えを身につけることで応用力と実践力を高める、という稽古法を採り入れているのです。

そこでも土台となってくるのは、中段の“正眼の構え”となる。

中心に両の手を備えることで、身体はまとまりを得られます。
無駄な力も抜け、視界も広く保て、目付も容易になる。
重心も安定するので、歩法を身につけていく上でも、正眼の構えは最適である。

これらの状態を維持したまま、身体を地道に練りあげていけば、どんな姿勢でいるよりも“正眼で構えているときが楽”だとさえ感じるようになっていく。
完全に調和が取れた体勢が、正眼であれば身につきやすいからです。

調和が取れているからこそ、いつでも全方位に動くことができ、瞬時に変化することも可能となる。

上段の構えも、こうした理合の応用に過ぎないと、身体が練りあげられてくるほどに、実感できるようになっていくことでしょう。

まっすぐに立つ。

そのまま動く。

ただそれだけのことですら、正眼を知らずして実践していくことは、困難ともいえるのです。

鏡の前に立ち、正眼に構えて、己と向きあう。
それは自らの隙と向きあうことでもある。

相手を制す前に、自らを制す。
それができてはじめて、勝つべくして勝つことが可能となる。

実践と反省の繰り返しの中で、そういった術理にも、次第に思い至ってくるのではないでしょうか。

正眼の構えを経なければ、まず見出せないであろう領域が、武術においては広く存在しているのです。